内モンゴル自治区の旅(2017/10/1-10/8)後編


オルドス駅の騎馬隊のモニュメント

 内モンゴル自治区の旅も後半。自治区の首府フフホトから鉄鋼都市パオトウへ移動し、市街散策や郊外のチベット寺院を巡る。 最終日は新興都市オルドスに向かい、陝西省との境にも近いチンギス・ハン陵を訪れる。

2017/10/5 五日目

高速鉄道で薩拉斉(サラチ)へ


サラチ駅

 朝、宿をチェックアウトしフフホト駅へ。途中で朝食に稍麦を平らげ、8時過ぎの高速鉄道でサラチへ向かう。 一般の鉄道であれば1時間半ほどかかる道のりを高速鉄道ならば30分強で到着する。中国はいま高速鉄道の建設ラッシュである。 サラチはパオトウ市に所属する鎮。地平線の見える草原はなく、遠くには山脈が見える山あいの街だ。 アルタン・ハーンが創建したチベット寺院「美岱召」を訪れるのがサラチにやって来た目的である。 駅を出て白タクの客引きのおじさんたちの威勢のいい声を無視してバス通りに向かう。バスに乗って30分ほどで山のふもとにある美岱召に到着した。

美岱召


美岱召の背後の山、中腹に白塔

白塔からの眺め

 美岱召の「美岱」とはモンゴル語で「弥勒」を意味する。1575年に建設が始まり、初めは「霊覚寺」、のちに「寿霊寺」とも呼ばれるようになった。 もとは当地方を治めるための城として建設が始まったが、やがてチベット寺院としての機能を持つようになった。 したがって美岱召は城壁に囲まれている珍しい寺院であり、なかなか趣のあるものだ。城壁に上がって上から寺院を眺めることもできる。 この城壁を歩いているとと背後の「宝峰山」と呼ばれる山の中腹にある白塔が目につくに違いない。白塔はアルタン・ハーンの遺灰が葬られているとされている。 アルタン・ハーンは死去当初は土葬されたのだが、後にダライ・ラマ3世が内モンゴルを訪れた際、チベット仏教の方式に倣い遺体を掘り起こし荼毘に付した。 ちなみに美岱召の敷地にはアルタン・ハーンの夫人のひとりである「三娘子」を祀った仏殿もある。
 さて、少し時間に余裕があるので裏山の白塔まで行ってみることにした。見ると欧米からと思しき観光客グループもこの登山に挑戦している。 後について登り始めたがなかなかきつい。運動不足のアラフォーには堪える。そのうえ階段の設置が中途半端で白塔までもう少しというところで階段がなくなっていた。 欧米グループの中の若い黒人女性はリタイアして階段を降りていった。我々は斜面に立てかけられていた木の板などを利用したり悪戦苦闘してようやく白塔に到着した。 書けばこのくらいで済むが、実際はこの小登山に1時間をかけたということはぜひ皆さまのご記憶に留めておいていただきたい。よい運動になった。

パオトウへ


パオトウ市街

 サラチの駅に戻り、13時過ぎの列車でパオトウへ。パオトウは内モンゴル随一の製造業と鉄鋼業の都市だ。 工業都市としての方向性が政府に示されて以来、パオトウは急速に発展。その過程でパオトウは主に山西省と陝西省から多くの移住者を受け入れた。 そのためパオトウの街のモンゴルっぽさは希薄だ。 フフホトでは商店の看板から共産党の告知まで漢字の横にモンゴル語が併記されていたが、パオトウの街では漢字だけの場所もある。 そして、パオトウの街で印象に残ったのが「浴池」の多さだ。公衆浴場のことである。 銭湯サイズの小ぶりなものから、健康センターのようなちょっと大きめなものまで、様々の浴池が目についた。同じ通りの数十メートルおきに浴池を見かけた時は驚いた。 パオトウは水量が豊富なのか、温泉が出るのか、あるいは移住した大勢の労働者が極寒の内モンゴルで暖を取るために浴池が求められた名残か、理由は不明なのだが。

夕方お腹を壊す

 宿に荷物を置いて一息つき、市街散策へ。パオトウはあまりモンゴル料理の店は見当たらず、山西省の名物のひとつである「麻辣湯(マーラータン)」のお店に入った。 マーラータンはまず自分でお好みの具材を選びその目方の量で勘定を支払う。次にそれを湯がいたものが辛いスープに入って出てくる。 辛いといっても「麻醤(マージャン)」というゴマダレに似たソースをつけて食べるので辛さは中和される。男性よりも女性に支持者が多い「小吃(シャオチー)」だ。
 味は悪くなかったが、これを食べていると次第にひどい腹痛に襲われ始め、中座してお店を出る羽目になってしまった。 お店にトイレがなかったのだ。中国で小さな食堂に入る時はトイレがないのことが多いので注意が必要だ。 特に悪いものを食べた記憶はないが、あるいは旅の疲れが出始めているのかもしれない。マーラータンはもったいないことをした。

山西省の麺を食べる


山西省の炒め麺。器がよい

 トイレに入ってスッキリしたので、よせばいいのにまた何か食べることにした。 宿に戻る途中で「山西面(山西省の麺)」と書かれた看板を見つけたので立ち寄った。 炒め麺とビールを注文。小綺麗な店だったので出てきた料理もなかなか気の利いた感じのものだった。 炒め麺は言わば焼きそばである。醤油味のもので特段辛くもなく、日本人にも受け入れられやすいだろう。 さっきのマーラータンの借りを返すような形で完食して店を出た。今日は早めに休んで明日に備えることにしよう。

2017/10/6 六日目

五当召


五当召のインフォメーションセンター

巨大なタンカ

五当召の小山

五当召内部

 翌朝6時に起床。おかげさまで元気です。まだ夜の明けきらない中、路線バスを乗り継いでパオトウ東駅へ。 昨日降り立ったのはパオトウ駅。宿はパオトウ駅よりも少し西にあるため、パオトウ駅よりもさらに東にあるパオトウ東駅に行くのは難儀であったが、 道が空いていたこともあり1時間ほどでパオトウ東駅に到着。パオトウ駅よりは小さい。 わたしの目的は列車に乗ることではなく、駅前から発車するという「五当召」行きのバスに乗るためである。 ロータリーに「石拐 五当召」と書かれた小型バスが止まっているのを発見。 念のためそばでタバコを吸っているおじさんに「五当召に行きますか」と尋ねると「行くよ。7時55分発車」との返事。 早速バスに乗り席に座って待っていると乗客が少しずつ集まってきた。頃合いになってさっきのおじさんが運転席に乗り込んで出発。
 チベット寺院「五当召」のある石拐(シーグァイ)区はパオトウの北東の山あいの集落だ。ここのバスターミナルを経由し、バスはさらに山奥へ。 8時ころパオトウ東駅を出発したバスは9時40分ころ五当召に到着。 意外にも綺麗に整備された駐車場と、「ようこそ五当召へ」と映し出されている大きな電光掲示板がわたしたちを出迎えてくれた。 秘境の寺院みたいなものを想像していたのでちょっとずっこけてしまった。さらに進むと立派なインフォメーションセンター。 立派なタンカが飾られている。安くないねこれは。お土産屋さんやコンビニもしっかり完備されている。ここで入場券を購入して入口へ。
 入場すると正面に小山があり、よく整備されている様子の階段があったので登ってみることにした。 途中タルチョ(チベット仏教で用いられる五色の旗)の飾られた石塔が鎮座している。 おそらくこの辺りはインフォメーションセンターなどとともに最近整備されたものだろう。 観光地化のためにずいぶんと投資がされているようだ。登りきると見晴らしのよい高台になり、やがて向こう側に五当召の寺院群の姿が現れた。実に眺めがいい。
 五当召は1749年に創建され、大小8つの仏殿から成る。どの仏殿も柱や壁に施された彫刻や壁画は見事なもので、保存状態もよい。 それもそのはず、五当召は文革における被害がほとんどなかった稀有な寺院なのだ。 また、チベット仏教の体系を学ぶ学府としての顔も持っており、これまで多くの僧がここで学びを得ており、 仏殿の周囲には学僧が寝泊まりする宿舎や食事を作る厨房などがあり、チベット仏教の雰囲気をたっぷりと味わうことができる。
 内モンゴルの山深い地に近代中国の激動の荒波から逃れたチベット寺院があった。朝6時に起きた甲斐があった。

妙法禅寺



妙法禅寺の門前町

妙法禅寺

 五当召からの帰りのバスは、来るときとは異なる舗装の悪い道を走った。途中集落をいくつも通過し、それぞれの集落で少しずつ人を乗せて走っていく。 なるほどパオトウ市内に出る人たちのためにこの道を通っているのだ。行きの経路はおそらく観光客向けに最近新しく整備された道なのだろう。 パオトウ市内に入りかけたところで車掌のおばさんに声をかけて下ろしてもらった。近くにパオトウ市内で最も大きい中国式仏教の寺院「妙法禅寺」があるのだ。 周囲は区画整理がなされ、きれいな建物が建ち並んでいる。こちらも少なくない投資が入っていることが伺える。 寺院の周りが整備されているのをみるとすぐ「政府による巨額投資」というイメージが浮かんでしまうようになってしまった。
 妙法禅寺は敷地面積4万1000平方キロと広々とした寺院だ。「呂祖殿」と呼ばれる仏殿が清代に建てられた他は、比較的最近の建造であるらしい。 呂祖とは800年代の人で、「呂洞賓」とも呼ばれ、「全真派」と呼ばれる道教の一宗派の創始者である。 道教の廟が最も古い建物だということは、もともとこの地は仏教だけでなく、道教の一側面である民間信仰の色濃い場所であったことが推察される。

財神廟


財神廟の商売の神

 妙法禅寺の近くには「財神廟」があるというのでついでに立ち寄った。財神はお金の神様である。財神はひとりではなく、何人もいる。 日本で有名な財神は三国志に登場する「関羽」である。もしあなたが中華料理店に入ってレジの近くに髭長く赤い顔をした人形が祀られていたら、それは関羽である。 非業の死を遂げた忠義の人関羽には敬慕と憐憫の情が集まり、時代を超えて彼は商売の神様となってわたしたちを見つめている。 アリババを経営するジャックマーも千年後には財神のひとりになっているかもしれない。ならないか。

2017/10/7 七日目

オルドスへ


伊旗バスターミナル

オルドスの草原

 7時に起床。今日はいよいよ内モンゴル自治区滞在最終日である。陝西省との境に近いオルドスにチンギス・ハン陵を訪ねる。パオトウ駅の北西にある「昆区バスターミナル」から東勝経由伊旗行きの大型バスに乗車する。途中バスは黄河を通過し、11時にオルドス市の街「東勝」のバスターミナルに到着。 ほとんどの乗客はここで降り、わたしを含めた残り3名ほどが「伊旗」へ。
 オルドス市は高騰する中国経済の負の遺産としての側面が垣間見える街として有名だ。 地下資源の豊富なオルドスに多くの移住者を呼び込もうと政府が肝入りの投資を行ったが、ほとんど移住者が来ずゴーストタウンと化している地区があるそうだ。 確かに整然とした街並みが続くが、外を歩いている人の数は少ないようだ。 オフィスビルと思しき建物の駐車場に止まっている車の数も少ない。 けれどもここに住んでいる人たちにとっては、自宅の周囲にスーパーや手頃な商店やレストランが営業していさえすれば、むしろ住みやすいのではないのだろうか。 路線バスなどの交通インフラも整っているし。少なくとも空気は澄んでいて気持ちがいい街だ。
 正午前に伊旗のバスターミナルに到着。 近くのイスラム食堂(どんな街にもイスラム食堂は必ずあるのだ)で昼食をとってからチンギス・ハン陵を経由するバスに乗車。 またここから30分ほどかかるらしい。バスの車窓からはまだ緑の残る草原が見えて飽きない。 ここは内モンゴル自治区でも南方に位置する。旅の始めに訪れた正藍旗の辺りとは気候がだいぶ違うのだろう。

チンギス・ハン陵


チンギス・ハン陵1

チンギス・ハン陵2

チンギス・ハン陵3

 チンギス・ハンは最盛期に世界の半数を統治したモンゴル帝国の初代皇帝として余りにも有名である。 チンギス・ハンは遺言で自分の死を公表することを禁じ、その通りにされた。したがって正確な埋葬地は未だ謎に包まれている(※注)。 モンゴル帝国の皇帝の宿泊施設を「オルド」と呼ぶが、チンギス・ハンの死後、祭祀は彼が生活をしていたこのオルドで度々営まれてきた。 当時は陵墓から遠くない場所にオルドが設営されていたとされるが、時は流れ15世紀、周辺地域の争乱により、オルドも南方への移動を余儀なくされた。 いつしかこのオルドを守る人々は「オルドの民」と呼ばれ、チンギス・ハンを祀る霊廟は八つのゲル(モンゴル族のテント)から成るようになった。 彼らが移り住んだ場所が、現在のオルドス市である。このことからわかるように、現在のチンギス・ハン陵にはチンギス・ハンの遺骨は埋葬されていない。 1950年代に周恩来と烏藍夫(ウランフ、少数民族出身者の中で最も共産党内で出世した軍人、政治家)が ゲル式の霊廟から一か所に固定して霊廟を建設しようと提案したことに始まる。 文革では青海省西寧市のチベット寺院「タール寺」に霊廟を疎開させ、災禍を逃れたこともあった。
 チンギス・ハン陵の周囲は石畳で整備され、霊廟そのものも最近新しく改装がなされたと見え、清潔感もありとてもきれいだ。 霊廟の中には衣服や弓矢、ゲルや皇帝が乗っていたとみられる荷馬車が展示されている。写真撮影が禁止されていたのが残念。 しかしきれいに整備されすぎており、モンゴルの風俗や文化の香りをあまり感じられないという印象も受けた。ドライな感じがするのだ。 敷地が広大にあるので、モンゴル族の文化を紹介する展示もっとあってよかったかと思う。 モンゴルの偉大な英雄チンギス・ハンの名声とともにチンギス・ハン陵の今後の発展を望む。
※注:近年の研究ではモンゴル国ヘンティー県の山「ブルカン・カルドゥン」に陵墓がある可能性が高いとされているが発掘調査には至っていない。 四川省カンゼ・チベット族自治州にあるとの説もある。

オルドス駅から西安へ


オルドス駅から見た市街

 戻りのバスが1時間ほど来ず、伊旗に戻ったのは夕方5時を過ぎたころであった。路線バスに乗ってオルドス駅に向かう。 車通りは少ないのに路線バスはほとんどスピードを出さない。車窓から街の様子をじっくり眺める。 人が少ない分、ビジネスを盛り上げることは簡単ではないかもしれないが、この街に住む人々に暗い影は感じなかった。 ラッシュアワーや順番待ちの行列の忙しなさとは無縁の生活をのびのびと満喫しているように見える。 一長一短、成長の止まったゴーストタウンなどと冷笑するものでもないことがわかる。
 路線バスは街を外れ、自動車の一台も見かけない大きな通りを走る。道の両脇には整然と街路樹が尽きることなく植えられている。 街路樹の向こうには草原が見えるはずだが、すでに陽は暮れ何があるか判別できない。薄暗いバスの車内には大きなスーツケースを持つ数人の客とわたし。 明日の朝にはまた西安の街の喧噪に埋もれに戻ることになると思うと、なんだかどっと疲れを感じた。 やがてバスは大きくなだらかにカーブし、正面に光を放つ建物が見えてきた。オルドスの駅だ。(終わり)


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