西安の歴史

(西)
(西)周の成立
渭水盆地におこった周は始め殷(商)に服属していたが、殷の紂王の暴虐無道に対しての不満が溜まり、反乱が起こりました。 周の武王はそれに乗じて殷を滅ぼしました。彼はBC1027年都を鎬京(現西安市長安県張家坡、斗門鎮一帯)に定め西周を成立させました。
(西)周の滅亡
(西)周の文化は次第に周囲の異民族に普及していき、彼らの行動を活発にしました。BC771年幽王のとき、申侯(異民族)は犬戎(異民族)と連合して現在の陝西省北部より鎬京に侵入し、 (西)周を滅ぼしました。周はその後、都を洛陽に移しました。
戦国時代 秦の台頭
周の勢力が衰えると実力のある諸侯たちが、互いに争うようになりました(この状態はBC3世紀後半まで続くが、BC770年〜BC403年までを春秋時代、BC403年〜BC221年を戦国時代と呼ぶ)。 そのうち戦国の七雄と呼ばれる斉、楚、秦、燕、韓、魏、趙が対立するようになりましたが、 秦の孝公は、BC359年に商鞅を左庶長に任命し、改革を行わせました。まず、十五連座法を敢行し、悪者を密告することを奨励しました。農業を重視し、商業を抑制し、農業と紡績を奨励しました。 宗族等級制度を廃止し、軍功等級制を確立しました。9年後、商鞅は二回目の改革を行い、県、郷、里の三級行政制度を確立、授田制を実行し、度量衡を統一しました。 この改革の成功により、秦の力は強大化しました。
秦の中国統一
BC230年、秦王の政は数十万の大群を繰り出して出征し、統一のための戦争を始めました。10年の戦争を経て、韓、趙、燕、魏、楚、斉の六国を滅ぼしました。  そしてついにBC221年、咸陽(窯店鎮一帯)で中国史上初の統一王朝、秦王朝を樹立しました。  政は王の称号をやめ、皇帝と称し自らを始皇帝としました。彼は民間の兵器を没収したり、全国を36郡に分ける郡県制を敷き、それを直接中央の派遣する官吏に納めさせました。また、  貨幣、度量衡、文字も統一し、焚書・坑儒による言論・思想統制するなど、法治主義に立つ徹底した中央集権を行いました。
秦の滅亡
しかし、急激な改革は人々の反感を買い、度重なる外征や長城の修築、宮殿の造営は民衆を苦しめました。そのため始皇帝の死後、各地で農民反乱(陳勝・呉広の乱等)が起こり、   BC206年、秦は滅びました。
(前)漢 (前)漢の成立
秦の滅亡後有名なのは名門出身の項羽と農民出身の劉邦の争いですが、劉邦はこの争いに勝ち、BC202年に長安(現西安市西北部)を都とする漢(前漢)を樹立しました。
(前)漢の西域政策
実質的に中央集権体制を確立した漢(前漢)は武帝(位BC141〜BC87 )の時、西域への領土拡大をはかり、北方の匈奴を攻撃(6回に渡り匈奴と戦い漢の安定に貢献した霍去病は有名)し 、オルドス、甘粛にも勢力を伸ば、し武威、張掖、酒泉、敦煌に郡を置きました(河西四郡)。
 一方、BC138年に張騫を使節とし、100人余りが長安から西域に出発しました。 そして現在のフェルガナやサマルカンドを経て大月氏にいたり、13年後に長安に戻りました。張騫はBC119年にも西域を訪れ、西域の状況を中国に伝える同時に、 中国の絹織物、磁器や農業などを中央アジア各国に伝えました。こうして漢(前漢)と中央アジアとの軍事、外交、通商上の交渉が始まりました。
(前)漢の滅亡
武帝は中国東北では衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪など4郡を、南方ではベトナム中部までを支配し南海など9郡を置きました。  しかし、度重なる遠征で財政は窮地に陥り、均輸、平準のような物価調整策や、塩・鉄・酒を専売としましたが、民衆に重税をかけて売位、売官を行い  社会が混乱しました。それに乗じ宦官や外戚(皇帝、王の母親又は妃の一族)が権力を争うようになり皇帝の権力は衰退し、ついに外戚の王莽が国を奪って新を樹立しました。
新の成立,滅亡
王莽は漢の平帝に毒を飲ませ殺害し皇帝に即位し、AD8年、新(都は長安、現西安市西北部)を樹立しました。 王莽は全国の土地を「王田」に改称し、奴婢の売買を禁止しました。国の税収を増やすために、何度も幣制を改革して混乱が起きました。 その結果、有名な赤眉の乱や地方豪族の反乱が起こり、23年、新は滅亡しました。






(後)漢
この新の混乱をおさめ劉秀(光武帝)は25年、都を洛陽に移し後漢を建てました。 後漢は一時カスピ海以東の50国程度を勢力下に置くまで力をつけました(班超の活躍は有名)。 ローマからも王の使いが来たり、倭人(日本人)も洛陽を訪れ印綬を授けたりと海外との交流も盛んになりました。 しかし、後漢末期には幼帝が続き、宦官や外戚が力をつけ、地方では豪族が力をつけ、国力は衰えました。
三国時代と(西)晋
184年に起こった黄巾の乱は各地に広がり、群雄が割拠し220年、後漢は滅びました。 この混乱の中、華北の魏(曹操、曹丕)、四川の蜀(劉備)、江南の呉(孫権)が三分割する有名な三国時代に入りました。 その後、魏は蜀を滅ぼしましたが、司馬炎が国を奪い265年、晋(西晋)を建て、晋は280年には呉も滅ぼして中国を統一しました。  しかし、晋(西晋)も帝位をめぐる争いや戦乱に苦しむ庶民の反感などにより、たちまち混乱し、匈奴に都洛陽、 次いで長安を攻略され、ついに316年に滅んでしまいました。しかし、江南に逃れた一族の司馬睿は317年、健康(現南京)で晋を復活させました(東晋)。
五胡十六国と南北朝
匈奴が動乱を起こすと、その他の鮮卑・羯、テイ・羌も華北に侵入し(この5民族を五胡という)、彼らの建てた多くの国が興亡し、 五胡十六国が乱立した世の中になりました。しかし、439年に鮮卑の拓跋氏が北魏を建て太武帝が華北を統一しました。その後、北魏は中国化政策をとりましたが、 内紛により東西に分かれ、東魏は北斉に、 西魏は北周に倒されました。この北魏より北周までの5王朝は北朝といいます。
 一方、晋の南遷とともに多くの貴族、豪族が江南に移住し、長江流域は発展しましたが、 華北を北魏が統一しようとしていた頃、東晋はその部将に倒されてしまい、 その後、宋,斉,粱,陳の王朝が短期間に入れ替わりました(これを南朝という)。 そして、南北朝の争いは1世紀ほど続きました。
隋の建国
北周の楊堅は589年、南朝の陳を倒し、南北に分裂していた中国を再統一し、都を大興(現西安)に定め、隋を建国しました。
隋の滅亡
楊堅(文帝)は再び中央集権国家を樹立しました。 文帝の息子楊帝は運河建設やたびたび周辺諸国に遠征しました。しかし、土木作業や度重なる遠征、重税などから民衆の反感を買い、 結局、30年で滅んでしまいました。
唐の建国
隋王朝末期、農民蜂起が発生し、隋王朝は不安定になりました。山西の李淵は長男の李健成と次男の李世民に長安に進軍するように命じ、すぐに長安を攻略しました。
 そして、隋の煬帝の孫の楊侑を皇帝にまつりあげ、自らは大丞相になりました。618年、煬帝が江南で殺されたと聞くと、李淵は皇帝と都長安に唐を建国しました。
貞観の治
李淵(高祖)はやがて息子の李世民(太宗)に皇帝の座を譲り、太宗は国力を充実させました。この太宗と次の高宗の時代、 唐は世界でも有数の大帝国となり、世界各地から様々な人が訪れました。この唐の繁栄は「貞観の治」と言われ後世に語り継がれています。
唐代の有名人
・玄奘三蔵
 629年、玄奘は仏典を求めてインドへ向かいました。様々な困難の末、4年後にインドにたどりつき、インドのナーランダー僧院で仏教を研究し、  仏教の蔵書を読みました。645年、玄奘は600巻余りの経典を携えて長安に戻り、長安の慈恩寺(大雁塔)で翻訳作業を行いました。  この玄奘のインドへの旅は大唐西域記に記され、西遊記のモデルにもなっています。

・則天武后
 則天武后はもとは太宗の「才人」で、「部媚」という号を賜われました。  太宗の死後、感業寺に入って尼僧となっていましたが、その後高宗は彼女を宮中に連れ帰り、「昭儀」としました。  655年、高宗は則天武后を皇后にしました。やがて、高宗の体が衰弱すると、則天武后は国を治め、行政を管理するようになりました。  高宗の死後、中宗、叡宗を廃し、690年に正式に即位し、中国史上唯一の女帝となりました。

・楊貴妃
 楊貴妃はもともと玄宗皇帝の息子の妃でしたが、玄宗皇帝に愛されて彼の妃となり、  玄宗は彼女に皇后に次ぐ貴妃の地位を与えました。玄宗が即位した当初の唐は開元の治と言われる安定した世の中を築いていましたが、  楊貴妃に溺れ、政治は楊国忠等の楊貴妃の親戚に任せきりにしてしまったため、世の中は乱れ、安史の乱の発生を招きました。  安史の乱発生後の玄宗一行は西に逃げましたが、彼らに不満を持つ兵士達に楊国忠らは殺され、楊貴妃も馬嵬坡で命を落としました。

・阿倍仲麻呂
阿倍仲麻呂は長安に54年も住み宗教と文化の伝播と日中両国の友好のために貢献しました。  科挙にも合格し、長安で出世しましたが、望郷の念を抱き帰国しようとした際、台風で帰国できず、  再び長安に戻り、結局一生帰国できませんでした。  西安の興慶宮公園には彼の記念碑には友人の李白が彼の死の際送った詩が彫られています。

・空海
 804年、留学僧として入唐した空海は青龍寺で恵果和尚に弟子入りし密教を学びました。  帰国後、空海は高野山で金剛峯寺を開きました。    
唐の滅亡
 玄宗が楊貴妃に溺れ政治をないがしろにした結果、安禄山と史思明による安史の乱が起こりました。  この反乱は8年もに渡り、ウイグルの援軍を得てなんとかおさまりましたが、  結果唐は中央統制力も弱まり、外戚や宦官がはびこり、また異民族の侵入も許し領土の大半を失うことになりました。  そんな875年、黄巣の乱が起こり、朱温はそれに参加し、長安を攻略しました。その後、朱温は黄巣を裏切り唐に降り、  黄巣を弾圧し、唐の僖宗から「朱全忠」という名を賜われた。904年朱温は昭宗を殺し、哀帝を即位させました。  907年にその哀帝を殺し、自ら皇帝となり、国号を後梁に改め、都を開封に置きました。  
西安と西安付近に
都を置いた王朝
西安と西安付近に都を置いた王朝
  • (西)周
  • BC1121-BC771
    鎬京(現長安県張家坡、斗門鎮一帯)
  • BC221-BC207
    咸陽(咸陽市窯店鎮一帯)
  • (前)漢
  • BC206-AD8
    都、長安(いまの西安市の北西)
  • 9-23  
    長安(現西安市の北西)
  • 後漢
  • 190-195
    長安(現西安市の北西)
  • 西晋
  • 313-316
    長安(現西安市の北西)
  • 前趙
  • 319-329
    長安(現西安市の北西)
  • 前秦
  • 351-384
    長安(現西安市の北西)
  • 後秦
  • 386-417
    長安(現西安市の北西)
  • 西魏
  • 535-556
    長安(現西安市の北西)
  • 北周
  • 557-581
    長安(現西安市の北西)
  • 581-618
    大興(現西安市)
  • 618-907
    長安(現西安市)
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