わたしが中国に住むようになったきっかけは井上靖の小説の存在が大きい。 「敦煌」、「楼蘭」、「異域の人」、「宦者中行説」。淡々とした文体の中に登場する人物たちの周囲に漂う砂埃のような匂いは、 当時日々を仕事に忙殺されていたわたしにとってそれは長い旅路の果てにたどり着いたオアシスの香りであった。 そして中国に住むのであればこれらの小説に登場するような、西域文化の色濃いシルクロード沿いの土地がよいと思った。 しかし今にして思えば、西安中信国際旅行社のTさんに敦煌旅行を勧められ、この地を訪れるまで、 小説の世界は小説に過ぎず、実際とはだいぶ違いがあるんだろうと少しタカをくくっていたところがあった。 しかし西安から敦煌に向かう寝台車から眺めた甘粛の景色は「敦煌」や「異域の人」で描かれた黄土の情景そのもので、 日本にいたままでは決して見ることがないから何と形容していいか言葉が浮かばないほど延々と続く大地、 その中に点々としているものがあって目を凝らして見るとそれは羊の群れであったと気づいた時になぜか目に涙が浮かんできて、 何故だかわからず感傷的な思いを巡らせていると、同じ寝台車両にいたおばさんが中国の言葉をほとんど知らぬわたしにリンゴをひとつ手渡してくれたのだった。
西安に住まうようになった今でこそ、西安駅はホームタウンで勝手知ったるようなことを言って自負しているが、 初めて西安駅を訪れた時はずいぶんと肝を冷やしたものだ。厳重なボディチェックに並ぶ人々の列。 厳重かと思ったら実際は係員同士がおしゃべりに夢中でたいしたチェックもなしに通過、 これまでの行列は何だったんだと思ったらその先には身分証を確認するための列がまた控えており、驚いたのはその行列の横で布団を敷いて寝ている人がいたことだった。 ここは屋外で、まだ駅舎に入ってないのである。しかも時刻はもう午前9時過ぎ。起きる時間ではないのか。そういうことではないか、、、
駅舎に入ってからも落ち着けない。人であふれている。空いているベンチはもちろんない。 山ほど大きな荷物をいくつも抱えて途方に暮れて立ち尽くす男たちや、夥しい量のひまわりの種のカスを床に散らかして掃除のおばさんと大きな声で口論している若い女性、 ベンチを何席分も占領して眠りこけている男の横には細かく色遣いの鮮やかなつばのない小さな帽子を頭に乗せた老人が腰掛けていて、 そばにある小さな売店の女性は手持ち無沙汰に携帯電話を眺め続けている。出発前にTさんから切符を受け取った時に「軟卧の切符を持っているとラウンジに入れますよ」と言われたのを思い出した。 切符に印字されている文字を手がかりに、駅舎の隅にあるラウンジを探し当てた。入り口に立つ駅員に恐る恐る切符を見せて入るように促された時の安堵といったらない。 ラウンジと言っても大きな部屋にベンチが並んでいるだけのようなものであったが、そこに腰掛けている人たちはみな落ち着いた感じで、 部屋全体に秩序みたいなものが感じられた。混沌とした駅舎の喧騒から隔絶されただけでも中国旅行初心者にとっては安心できたものだった。
ラウンジに座ってしばらくして改札となり、専用口から改札し、すでに到着していた列車に乗り込んだ。 わたしの切符に印字されている軟卧は一等寝台ということらしく、二段ベッドが二つ向かい合った個室になっている。 私のあとに家族連れが入って来た。赤ちゃんを抱いた若い夫婦とおばあちゃんであった。温厚そうな人たちでよかった。 列車が発車してしばらくして制服を着た大柄の女性が検札にやって着た。検札に来たというのは後で気づいたことで、 この時はよくわからずわたしはパスポートを差し出したりして少し押し問答な形となり、車掌さんを苛立たせてしまったようだった。
同室の家族とは言葉が通じないながら色々なやり取りがあった。 ひとつひとつ書いているとこの文章はいつまで経っても敦煌に到着しないのでやめる。 午前に西安を発った列車は日の暮れ方ころに蘭州という駅に到着し、あいにくこの家族とはここでお別れとなった。 駅のホームで撮ったこの家族の写真は、これまで行く先々で撮り続けてきた写真の中でも特に大切なものだ。 列車が蘭州を出発するころには外には夕闇が訪れ始めた。 景色がなくなると途端に手持ち無沙汰になり、そのうえ軟卧の個室には自分ひとり。ベッドで寝転んでいるといつの間にか眠り込んだ。
列車の揺れに何度か目を覚ましたものの、わりと気持ちよく目覚めることができた。 外を見ると遠くに険しい山脈が見えるほかは、ただ一面に荒野が広がっていた。 ところどころぽつぽつと草が固まって生えている。荒野はいつ果てるとも知れない。廊下で歌を歌う女性の声が聞こえる。 どんな人が歌っているのかしらと、いそいそとベッドから降りて廊下に出てみると、それは昨日検札にきた車掌のおばさんであった。 気を取り直して部屋に戻りまた外を眺めていると、やがて白い人工的な建造物が姿を現した。風力発電の風車だ。何十何百どころではない、 何千台と設置されているであろう、長い間途切れることがなかった。時間帯にもよるのだろうか、クルクル回っているものもあれば、 むしろ回ってない風車の方が多かった感じだ。 風車が途切れてどのくらい経ってからだろうか、列車は敦煌駅に到着。敦煌に至るまで長々と書き記したが、ようやく旅の始まりだ。
敦煌駅の改札を出て、広大な駅前広場でガイドの王さんという女性と運転手の馬さんという男性と落ち合った。
もちろん西安中信国際旅行社のTさんに手配していただいたものだ。馬さんのフォルクスワーゲンに乗り込み、はじめに食堂に立ち寄りラーメンをいただいた。
牛肉麺と呼ばれる中国の内陸部で特にポピュラーな麺の一種だ。列車を降りて、少し肌寒く思っていたので、あっさりした温かいスープがありがたかった。
腹ごしらえを終え、早速最初の目的地、砂に覆われた山脈「鳴沙山」へ。
車を走らせ到着するかなり前から砂丘の様子が露わになり始め、そのスケールの大きさに興奮する。
鳴沙山は東西に約40キロ、南北に約20キロに広がる。風が吹いて砂が舞う時、印象的な音を立てる。
広大な砂地にたたずむオアシスは「月牙泉」と呼ばれ、傍らに建つ楼閣とともに鳴沙山のよきシンボルとなっている。
観光客向けに長靴の貸し出しや、ラクダに乗って砂山の頂上まで連れていってもらいシルクロードの雰囲気を満喫できるサービスなどが用意されており、
せっかちな人向けにはバギーカーの貸し出しもある。
次の目的地はこの旅のメインエベントである「莫高窟」であるが、その前に少し早い昼食をとった。
ガイドの王さんが「私と馬さんは別の席で食べた方がよろしいか」と聞くので、とんでもないことです、ぜひ一緒に食べましょうと答えて3人一緒のテーブルで食事をした。
王さんはご主人がコンビニを経営しており、小学生の男の子がいる。馬さんにも小さい子がいるが、
夫婦共働きの関係上、敦煌の近くの街「酒泉」の実家に預けているのだそうだ。
莫高窟は市街から東南に約25キロにあり、岩山に数百の洞窟が彫られ、中に壁画や仏像などが造成されている。
掘削が開始されたのは五胡十六国時代の西暦350年ころからとされる。
このように岩肌に仏教様式の彫刻や壁画を造った「石窟」や「石刻」と呼ばれる遺跡が中国のみならず、
シルクロード沿いには多数存在する。当時のお金持ちや権力者が財を投じて造らせたものだ。
さて、莫高窟を有名にしたのは「敦煌文書」が発見されたことによる。莫高窟の第16番目の窟の壁が剥がれ落ち、
それまで知られていなかった小部屋が現れ、中に膨大な文献が保存されているのが発見された。
その文献は誰も解読できない文字で書かれており、後に文献が世界各地に散らばったこともあり、世界中で敦煌文書の研究がなされるようになった。
井上靖の小説「敦煌」はこの文献が莫高窟にもたらされる過程を、当時この地方を支配していた「西夏王国」の隆盛とともに詩情豊かに描いている。
夕食はロバ肉を使った麺料理をいただいた。ロバの肉はこちらではそんなに珍しいものではないようだ。 照り焼きにして細切りにした肉を麺とタレとからめていただく。このお店のある「沙州市場」は敦煌市街の人気スポットで、 日が暮れると煌々と灯りが灯され、様々な露店や飲食店が立ち並ぶスペースには地元客や観光客でにぎわう。 屋外のテーブルで夜風に吹かれながら串焼きを食べるのもシルクロードの雰囲気を味わえるような気がしておすすめだ。
翌朝最初に向かったのは荒野にポツンと佇む小さな寺院。その敷地内に白馬塔と呼ばれる塔が建っている。
西暦300年代の仏僧「鳩摩羅什(クマラジュウ)」は新疆クチャの王族出身で、晩年は長安で教典の翻訳に従事したことで知られるが、
この白馬塔は旅路で死んだ彼の馬を祀ったものである。
塔の傍らの草地ではどこかの家で飼われている羊や山羊が草を食んでいてのどかな様子だ。
今日は敦煌を発ち、瓜州県にある「鎖陽城」、「楡林窟」を経由して嘉峪関市へと向かう。
「鎖陽城」は前漢時代に冥安県の城としてスタートし、唐代には瓜州城となった。
鎖陽城の名の謂れは、唐の武将「薛仁貴」が瓜州城でハミ国の軍と対峙した際に包囲したハミ軍に水路を絶たれ、城内の食料も底を尽いて危機に陥ったが、
兵たちは「鎖陽」という野草を食べ、援軍の到着するまで飢えを凌いだというエピソードによる。
鎖陽城の敷地には「タール寺」と呼ばれる寺院跡があり、玄奘三蔵がかつてここで説法を行ったとされる。
「楡林窟」は敦煌五大石窟と呼ばれる石窟群の中で、莫高窟の次に規模の大きい石窟として知られる。
楡林河の流れる渓谷にそびえる岸壁に43もの窟が掘削されている。
西夏王国がこの地方を支配していた時代にも掘削や改修が積極的に行われていたことから、西夏が仏教を保護するスタンスをとっていたことがわかる。
楡林窟は岸壁の上からの眺めが素晴らしい。
楡林窟を出発してやがて高速道路に入り、3時間ほどで嘉峪関市に入った。敦煌よりも街の規模としては大きい。
このあたりは資源が多く産出されることもあり、郊外に工場が多く、観光以外の産業によって発展してきた街だ。
背の高いマンションや商業ビルが立ち並び、自動車の交通量も多い。
砂漠と荒野のオアシス敦煌のなんとなくのんびりとした感じとはやはり異なる。
翌朝早速「嘉峪関」へ。
昨日の夕食は馬さんの姿が見えなかったが、馬さんはわたしを宿に下ろしてから嘉峪関から目と鼻の先にある「酒泉」の街にある実家に帰り、
お子さんと一晩過ごしたそうだ。嘉峪関は明代に築かれた万里の長城の最西端にある関である。
3万3千平米の敷地を高さ11メートルの壁で囲んだ要塞だ。嘉峪関の建物の多くは現代になって多くの修復がなされ、明代当時の面影を再現しようという努力がみられる。
門の裏手の上部にはレンガがひとつだけ置かれている。
これは設計者がレンガ1個分余分に余るよう設計をし、建設を終えたとき本当にレンガがひとつだけ余ったというエピソードによるものである。
果たして本当だろうか?
「懸壁(ケンペキ)長城」は嘉峪関から車で数分の場所にあり、長城が急な山の斜面にが伸びていく様子は圧巻だ。実際に歩いて頂上まで登ることができる。
しかしこれは健脚に自身がある人でなければお勧めできない難所だ。本当に急なのである。登り疲れて途中で何度も引き返そうと思ったか知れない。
しかし血を吐くような思いで登り切った頂上には素晴らしい景色を望むことができ、これがちょっとしたご褒美になるかもしれない。
嘉峪関市街で昼食をとり、車で30分ほどの場所にある嘉峪関空港まで送ってもらい、王さんと馬さんとお別れになった。
馬さんの車の前で馬さんと肩を組んで記念撮影をしたりして別れを惜しんだ。
空港でチェックインの列に並んでいる間、王さんから最近の敦煌の物価の上昇や日本人観光客の減少などについて愚痴をこぼされたり、
わたしからは王さんの話す日本語の少し気になる点などを指摘し、やがて本当にお別れとなった。どうもありがとうございました。
今回の旅行の目的のメインは井上靖の小説「敦煌」の構想の下敷きとなった「敦煌文書」の発見で有名な莫高窟であった。
もちろん莫高窟を訪れることができたのは素晴らしい体験だったが、それよりも今回衝撃を受けたのは、列車の車窓から見たいつ果てるとも知れぬ荒野や、
玉門関や鎖陽城の城壁跡に上って眺めた荒野の向こうにある地平線だった。日本にいては360度見渡す限りの地平線を眺めることはできないだろう。呆れるくらい広い。
中国の広大さを肌で実感した。そしてこのさらにさらに西に西域と呼ばれる場所が広がっているのだ。いつか自分も訪れることがあるだろうか、
と思ったことをよく覚えている。この旅から2年後、わたしは新疆ウイグル自治区を訪れ、西部の街「カシュガル」と国境の街「タシュクルガン」を旅し、
この時の思いを結実させることになる。
(終わり)
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