陝西省の北部は「陝北(シャンベイ)」と呼ばれ、延安市と楡林市から成る。 延安は中国共産党が「長征」の末たどり着き、力を蓄えその基礎を築いた「聖地」として知られる。 楡林市は近年石油が産出されたことで発展著しい。 いずれも冬の厳しい寒さは堪えがたく、内モンゴル自治区と接しているためにモンゴルからの文化が少し混じるのか、 羊をモンゴル風な食べ方をしたり、西安や他の地区とは異なった文化を持っている印象がある。今回はその「聖地」延安を訪ねる。
こちらで旅行記を書かせていただくようになって、何度早朝の列車で西安を出発したか知れない。
そんなに多くない気もする。今回の目的地は革命の聖地「延安」。西安と同様、この延安も中国全土から観光客の訪れる陝西省の有力な観光資源である。
近代の史跡以外にも、隋や唐の時代の遺跡も少ないがあるらしい。
西安駅に到着時はまだ暗く、肌寒い夜明け前の張りつめた感じのピンとした空気が、旅立ちの期待に胸ふくらます興奮をひそやかに抑えてくれる。
西安駅の構内は相変わらず人に溢れているが、時間帯のせいか、いくぶん落ち着きがある様子だ。
7時26分発の「K556」に乗車。一般座席の「硬座」で4時間ほどの列車の旅だ。
西安から延安へは高速鉄道がすでに開通しており、1時間ほどで到着するので便利このうえないのだが、
やはり旅の雰囲気をじっくり楽しめる普通列車はなかなかやめられない。発車して1時間から2時間ほどは青々とした緑豊かな景色が続いていく。
次第に緑が少なく黄土色の土がむき出しの地面や山肌が目立ってくる。畑にも何か作物が植わっているものの、地面と同じ土色をしており、仕方がないから植えられるものを植えておこう、何もしないよりはましだ、という感じがしてくる。
まあ、11月に農作物が豊かに実る風景を求めても仕方がないのだけれど。向かいあった客席ではおばあさんがカップラーメンの準備をしている。
おばあさんがカップラーメンを平らげ終わるころ、列車は延安に到着。時刻は11時半。
少し肌寒いものの、陽もだいぶ昇っているいるので過ごしやすい。延安駅は駅舎こそ決して大きくないが、堂々たる構えをしており革命の聖地であることを誇示している。
駅舎の正面上部の看板には「延安」と書かれているはずであるが、だいぶくずした書体で書かれており、わたしには読めなかった。
駅前の花壇はよく手入れされており、大きな石碑には革命のメッセージが刻まれている。
延安を初めて訪れたものに与える革命の聖地のイメージとしてはまずまずのところであろう。
駅を出て右に進みしばらくすると食堂の連なるエリアにさしかかるのでそこで昼食とした。予約していた宿もこの近くのはずなので都合がよい。
麺を提供する店に入り「大肉饸饹(ダーロウハーラー)」を注文した。
大肉は豚肉のこと、饸饹は麺の一種であるが、小麦粉をこねて延ばしたり切ったりして麺にするのではなく、小麦粉をこねるところまではいっしょであるが、
ところてんのように小さい穴がたくさんあいた器具にセットして押し込んでニュルニュルと麺をひりだして作るものである。
わたしはそれまで饸饹については、日本そばに近い色をした「荞麦(チャオマイ)」という種類の黒っぽい麺しか食べた経験がなかったので、この店で出てきた饸饹に驚いた。
白いのである。後でわたしが無知なだけで、白い饸饹も西安で一般的に食されていることを知ったのだが、
このとき訝しげにすすった饸饹はボソボソとして麺を噛むときの心地よい食感がなく、ちょっと閉口した。
スープもなんだかちゃんと味が出てないような感じがして、お店選びをしくじったかな、と思いつつ支払いをして近くにある宿に荷物を置き、
気を取り直して散策に出かけた。しかしこのときの食事で受けた「なんとなくいやな予感」は、この延安の旅におけるすべての食事で的中するのであった。
1934年、国民党軍の戦闘で分が悪くなった共産党軍は本拠地である江西省瑞金(当時は中華ソビエト共和国と呼ばれていた)から
2年をかけて転戦しながら徒歩で1万2500キロの道のりを移動し、延安にたどり着いた。
これは「長征一万里」と呼ばれ、中国共産党にとって、歴史上重要な転換点であった。
棗園は1944年から1947年まで中国共産党の高官の住居があった場所。毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳などがここに住まい、党の活動の指示を出した。
現在は庭園として開放されており、わたしが訪れたときは多くの家族連れで賑わっていた。
園内の芝はよく手入れされ、建物は当時のそのままの様子を残しており、毛沢東や周恩来が実際に使用していた机やベッドなどが展示されている。
住居の中には「ヤオドン」が用いられているものもある。
ヤオドンとは山の斜面に洞穴を掘って住居に最適化したものである。この地方ではポピュラーな住居の方式で、ヤオドン形式のホテルもこの地方では少なくない。
棗園の周辺はその名前の通り「棗(ナツメ)」の産地のようで、棗園の脇にはナツメの販売所が何十軒も並んでいる。
ここで売られているナツメは赤いナツメを干したもので、そのまま食べてもよいが、香辛料のひとつとして火鍋などの鍋料理に入れたり、
お米と一緒に炊いてお粥として食べたり、お湯の中に入れてお茶代わりにして飲んだりする。
干したナツメのほのかな酸味と甘みが溶け出して、よい味がするのだ。
楊家嶺も中国共産党幹部が住居にしていた場所。棗園のような公園ではないので人気は少ないが、静かな並木道の両側に素朴な建物が配置されていて、
落ち着いた雰囲気でよい所だ。
印象的なのは中央大講堂と呼ばれる教会のような建物で、かつて党の活動がここで頻繁に行われていたことを伺わせる。
この大講堂を出て、わたしは腰を抜かした。目の前に毛沢東が立っているのだ!毛主席はわたしに気が付くとサッと手を挙げたではないか!
着ている服も肖像画で着ているような上品なもので、その姿は威厳と柔和の両方を兼ね備えていた。
本来であれば丁重に挨拶をして記念撮影の一枚や二枚の申し出をするべきであったのだが、小心者でかつ小日本であるわたしは立ちすくんだまま、
この千載一遇で一生に二度と訪れない機会を逃してしまったのであった。
「よく似てたなあ」と先ほど出会った毛沢東のそっくりさんのことを考えながら、次の目的地「革命紀念館」に向かう。
毛主席ほどの有名人だから写真を撮るにもけっこうな料金を要求されたのではないだろうか?革命紀年館に到着した頃にはすでに4時の閉館時間を少し過ぎてしまっていた。
今日の散策はここまで。繁華街をぶらぶらして夕食とすることにした。それにしてもこの延安という街は、四方を山に囲まれ、道も決して広くない。
こんな小さな街に中国全土から観光客が集まってくるのは大変なことだ。宝塔山にひっそりと佇む塔が延安の街の喧噪を見守っている。
夕食は羊の串焼きを食べることにした。時間が早いせいかまだ人気のないフードストリートのうちの一軒に入った。
ハズレであった。これでは西安で食べる方が美味しかった。しかもちょっと高かったし。小一時間ほどしてから外へ出て、
繁華街の方へ進むと先ほどは何もなかった通りに屋台が所せましと並んで営業を始めているではないか!
若い人たちがそこでたくさん食事をしているのを見て、「ああ、今回の旅はもしかしたら食べ物の運はないのかな」とひしひしと感じるのであった。
翌朝、昨日入れなかった革命紀念館を訪れる。建物の前で大勢の団体旅行者たちが記念撮影をしている。よく見たらみな軍服を着ているではないか。
ガイドらしき人の手には「湖北省」と書かれたのぼりが握られている。湖北省の部隊に所属していた解放軍のOBたちだろうか。
延安で同窓会を開き何十年ぶりかの再会を果たしたのかもしれない。
日本で例えれば、伊豆の温泉旅館などに集合して温泉に浸かったあと、戦時中の思い出話をしながら酒を飲み、
旅館の中にあるカラオケスナックで「月月火水木金金」や「同期の桜」をみんなで歌うといったようなところだろう。
いずれにせよこんなところに日本人がいると知れたらどんな目に合わされるかしれない。ここはあまり目立たぬよう見学するのがいいだろう。
(※注:実際に日本人だと知られたからと言って、ひどい目に合うようなことはもちろんありません。一般の中国人はみな常識と知性、そして他者を受け入れる寛容さを持っています)
中国の各都市には入場無料の博物館があり、その土地の歴史や遺跡から出土した文物、あるいは恐竜やマンモスの化石などといったものが展示されているが、
どんな博物館にも必ずあるのが、国共内戦および日中戦争時(中国では抗日戦争と呼ばれる)における中国共産党の活躍を紹介した展示である。
どの博物館もフロアまるごと使用しているので、中国の博物館を訪れたことのある人ならご記憶のことと思う。
この革命紀念館はそういった各博物館の中国共産党展示の集大成なのである。
革命紀念館を出た後、市街のほぼ中心にある清涼山に向かう。その近くで何か食べることにした。朝食がまだなのである。
「擦擦」と看板の掲げられた店に入ると、店では小太りの兄ちゃんがもうだいぶ肌寒いというのにTシャツ一枚で店番をしていた。
わたしが擦擦を注文すると、トッピングの具材は何にするかと聞いてきた。無理にトッピングしなくてもよいのだが、せっかくなのでソーセージを頼んだ。
兄ちゃんは冷蔵庫からソーセージを一本取り出し、それを細かく刻んで「擦擦」の材料と一緒に炒め始めた。
「擦擦」とは、千切りにしたジャガイモに小麦粉をつけて炒めるというシンプルな料理である。
これまで聞いたことはあったものの、実際に試したことはなかった。
出来上がった「擦擦」は一見するとチャーハンと見間違えそうなものであるが、お米ではなくジャガイモである。
具材は本当にジャガイモとソーセージだけで、その他に味にこれといった特徴はなく、
ウスターソースとかケチャップ、マヨネーズなどをつけて食べたいと思わせるものであった。
この四方を山に囲まれ農作物も実りにくい寒冷の土地ならではの料理なのではないかと思った。
わたしは決してこの土地に住む人々を誹謗するわけではない。厳しい冬をじっとじっと耐え、実り少ない春を待ちわびる様子にぴったりな食べ物に映ったのである。
やはりちょっと下に見ているか。わたしは何とか半分だけ食べ終え、お金を払って店を出た。
兄ちゃんに「清涼山は向こうですね?」と聞いたところ、「知らないよ」と言われてしまった。
「万仏寺」は清涼山の斜面に建っている寺院で、隋代に建設が始まったというなかなか歴史のある寺院だ。
「千佛寺」、「石空寺」という別名もある。山の斜面に掘られた石窟が数は少ないが存在し、これが「千佛寺」とも呼ばれる所以だろう。
こじんまりとした感じで部屋数もほんの少しだがゆっくりと隋、唐の時代の石窟の様子を堪能することができる。
また、ここには「新華書店」の第一号店の跡地がある。「新華書店」は中国政府の経営する書店で、中国の街にたいていひとつはある本屋さんである。
当時は中国共産党機関紙を刷る印刷部門のような位置付けだったようだ。
旅の最後に鳳凰山に登ろうと思い、向かう途中でお昼時となったので、繁華街の地下フードコートに入って「抿節」を注文した。 「抿節」は小麦粉以外にえんどう豆などの豆を原料にして作った麺のことで、様々な調味料につけて食べるようだが、 ここで供されたのは普通にスープに入ったものであった。 一体この味をどう表現したらよいだろうか、、、麺がボソボソして味気ないのは百歩譲って好みの問題として、 お湯に塩を入れただけのようなスープはどのようにフォローすべきなのだろうか、、、 給仕の女性も調理を担当した男性も愛想がよく、客として気持ちよく接客を受けただけに、この「抿節」の味わいにしょんぼりして店を出た。
気を取り直してバスで鳳凰山に向かう。延安には四大名山というのがあって、鳳凰山はそのひとつらしい。
延安のランドマークである塔のある宝塔山に登るべきかとも思ったが、あの印象的な塔は近くに行って眺めたり実際に登ってみたりするより、
延安市街からその佇まいを見上げる方が趣のある感じがしたのだ。
鳳凰山は海抜1132メートルで、決して高い山ではない。古くは秦の始皇帝が北方の匈奴対策として30万の軍勢を鳳凰山に置いたという。
したがって鳳凰山では古代の城壁や城郭の跡がいまなお残る史跡を見学できる。また、鳳凰山の各所に道教の寺院があり、信心深い人たちがお参りをしている。
2時間ほどで鳳凰山登山を終え、バスで延安駅に向かう。駅前でおばさんが何やらお弁当のようなものを売っていたので足を止めた。
白い衣で何かを巻いたものがプラスチックの入れものに入っている。おばさん曰く、「ジエビン」というものだそうだ。
わたしはジエビンをひとつ購入し、どういう字を書くかわからないので、「節餅」という字を勝手に当てることにした。
革命の街延安に別れを告げ、列車は西安に向かって走り出した。今回の旅は食事がいまひとつで、
旅先の食事を旅の楽しみの大部分を占めるわたしとしては、ちょっと不完全燃焼の感がぬぐえなかった。
けれど、必ずしもその土地の食べ物が口に合うわけではないし、合わなかったからといって、延安という街がイマイチな街だったかというともちろんそんなことはない。
食事に関する特別な思い出が、延安という街を特別なものとして、今後もわたしの中に残り続けることだろう。
列車が発車してしばらくして、先ほど買った「節餅」を開けてみた。衣に巻かれているのはキュウリや人参の細切りだ。真っ赤なタレも付属している。
唐辛子だ。生春巻きに雰囲気が似ていてうまい。衣もクセのない味で、これで野菜の細切りを包んだだけのシンプルなものなので美味しくいただけた。
これでなんとか延安の旅をすっきりと終わりにできそうだ。(終わり)
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