シルクロード コラム 西安郊外の旅 - 漢中と宝鶏


五丈原の武侯祠

 この旅行記は2009年にわたしが初めて西安を訪れ、その日程の後半に2泊3日で西安郊外の漢中と宝鶏の2都市を旅した時のものだ。 西安という世界的にみても歴史のある街を訪れた感動冷めやらぬ中、ガイドと運転手をつけ、後部座席でひとりゆったりと郊外の街や史跡を見て回るという旅だ。
 このぜいたくな旅をアテンドしていただいたのはもちろん西安中信国際旅行社のTさんである。 今でこそ各地をひとりでフラフラとほっつき歩いて悦に入っているが、当時はまだ一言も中国語ができず、 右も左も分からないわたしにはこの「安心・便利・快適」なサービスは、それまで随分と遠いように感じられていた中国という国との距離をとても身近なものに感じさせてくれた。
 当時の写真を見ると懐かしくなる。この旅からもう10年近くも経ってしまった。少しずつ思い出しながら書いてみたい。

一日目

ガイドさんたちと合流

 わたしの初めて西安は、雨の西安だった。観光するにはすこぶる不便であったが、雨に濡れた城壁の石の色は今となっては味わい深いものだったように思う。 主要な観光地を見終えた明くる日の朝、ガイドの来さんが宿まで迎えに来てくれた。 来さんは飄々とした50代の男性で、中国人が日本語を話すときに出るアクセントがあるものの、ボキャブラリーが豊富で堂々とはっきりとした話し方をし、 この人に任せれば心配ないだろうとすぐに納得させてくれる、頼りがいのある人柄の持ち主だった。 わたしたちは挨拶もそこそこに宿の近くに止まっているまだ新しいヒュンダイの8人乗りの車に乗り込んだ。
 運転手の若い男性の名前は残念ながら失念してしまった。 坊主頭で寡黙ながっしりした体格の持ち主で、来さんは「彼は最近この車を買ったばかりで今お金がないんですよ」と言ってガハハハと笑った。

陝西省漢中市について

 漢中が長い中国史の中でスポットが当たるのは、紀元前200年代、項羽率いる楚軍と対立した劉邦がこの地に封ぜられた時をおいて他ならない。 劉邦にはもともと項羽から秦の都だった咸陽を含めた関中地方を与えられる約束であったがこれを反故にされ、漢中を含めた巴蜀地方を与えられたのである。 これは「左遷」の語源にもなっている。 劉邦はこの地を天下統一への足がかりとし、やがて項羽を破り天下を手中にすると、国名を「漢」と定めた。現在では中国人の使用する文字、中華民族の名称にもこの「漢」の文字は用いられている。  
 漢中の気候は亜熱帯性で、西安と比べると比較的暖かい。市内には漢水が流れ、四川省と境界を接する山地は自然豊かでパンダやトキなど世界的にも希少な生物が生息する。 菜の花の季節には郊外の菜の花畑に大勢の観光客が目の保養に訪れる。

武侯祠と武侯墓


武侯祠

武侯墓

 西安から車で4時間以上、さすが峻険な地として名高い漢中までの道のりは、途中トンネルをいくつも通過する山道ばかりであった。 ここは漢中市郊外の勉県。最初に訪れるのは三国時代の英雄のひとり諸葛亮を祀った「武侯祠」である。 中国各地に武侯祠はいくつもあるが、この勉県武侯祠は最も古い武侯祠として知られている。建立は269年とされており、これは蜀が滅亡する直前の時期である。
 勉県の南方、蜀の将軍黄忠が魏の夏侯淵を討ち取ったことで有名な「定軍山」のふもとには武侯墓がある。五丈原の決戦の半ばに倒れた諸葛亮がここに葬られている。
 これら武侯祠と武侯墓はわたしたち以外に観光客はほとんどおらず、ゆっくりと見物することができた。 来さんの知り合いで勉県の地元政府に勤めているという女性がやってきて一緒に観光をすることになった。 しばらくすると今度は背の高い険しい顔つきをした中年の男性がやってきて、わたしたちはこの人と記念撮影をした。 来さん曰く勉県の部長さんだそうである。中国では「部長」というポジションはトップやそれに近い位置を指すそうであるから、相当に偉い人なのではないか。 さらに、この後武侯祠の近くの有料道路の料金所では、来さんの知り合いの女性が係員に手を挙げて挨拶をするとフリーパスで通れてしまい、地元政府のパワーを見せつけた。 来さんがしきりに「これはすごい、すごいですよ」とゲラゲラ笑って子どものようにはしゃいでいた。なんだかすごい旅行になってきた。
 夜はこの部長さんの計らいで武侯祠の近くにあるレストランでご馳走になり、白酒(度数50度前後ある中国の蒸留酒)を飲まされて、しこたまに酩酊した。

二日目


蜀の桟道

漢中市博物館


漢中市博物館

翌朝、漢中市内にある「漢中市博物館」へ。この博物館のある場所は「古漢台」と呼ばれ、かつて劉邦が建てたとされる宮廷跡の敷地内にある。 博物館自体も歴史と風格を感じさせる佇まいをしている。 石碑や書画などの文物が主で、特に価値があるのは曹操が書いたとされる拓本であるが、わたしはこれを見たかどうか、イマイチ記憶にない。 目玉の展示品を見たかどうか忘れてしまったのは実に情けない。
 記憶に残っているのはこの日に訪れる予定の蜀の桟道のジオラマ。峻険極まる蜀との交通は、険しい山の崖に木の板を並べて人がひとり通れるほどの道が築かれていたのみだったのである。

張良廟


張良廟

張良廟前で書家の実演販売

麺を打つ食堂の店主

 漢中市街を抜け、車は山深い道をひた走る。曲がりくねっていて勾配もある道を2時間近く運転しつづけるのは大変だろう。 「長良廟」はその山深い中に佇んでいる、劉邦の軍師として活躍した張良を祀った廟だ。周囲を緑に囲まれ静かで落ち着いていて感じがいい。 我々以外に観光客がほとんどいないのでゆっくりできるということもある。
 来さんはガイドの仕事とは別に、かつてこの長良廟に家族や親戚たちと訪れたことがあるそうだ。 その時一緒だった来さんの奥さんのお姉さんは、その後病を患い亡くなったということだった。来さんは「ここに久しぶりに来て、義姉のことを思い出しました」と言った。
 張良の才は劉邦の天下統一になくてはならないものであったが、天下統一後は権力闘争を避けるように一線から退き仙人のような生活を送り、劉邦の死の9年後(紀元前186年)に亡くなった。
長良廟の向かいにある食堂で食事をすることにした。食堂は質素な作りで、手打ち麺を専門にしている店だった。 店主のおじさんの好意で麺を打っているところを撮影させてくれた。 出来上がった麺は名古屋のきしめんをもう少し幅広にしたもので、スープはなく、醤油や酢などの調味料と和えるまぜ麺だ。具材はもやし、白菜、チンゲン菜を茹でたものなど。 来さんと運転手の男性はテーブルに備え付けのラー油をたっぷりとかけている。「陝西省の男はたくさんラー油をかけて食べます」と来さん。 わたしは少しだけ。麺はもっちりとしてクセになりそうな食感。味もシンプルでしつこくなく、老若男女味わいやすいものだろう。

ダム


ダム

蜀の桟道

 張良廟を出て車はさらに山の奥へ奥へと進んでいき、やがて大きなダムに到着。漢中博物館の項で触れた蜀の桟道がここに再現されている。 ダムは大規模なものでダムの頂上の通路から下を見下ろすと何百メートルも下を見下ろすことができる。わたしはここで信じられないものを目撃した。 このダムの端と端を金属製のロープでつなぎ、滑車を取り付け、人がこの滑車で向こう側を行き来できるという観光客向けの有料サービスがあったのだ。わたしは高いところがダメである。 こんなものを考え付く人がいて、しかもそれに実際にお金を払って体験している酔狂な人々までいたことにわたしは言葉も出ず立ちすくむばかりであった。
 蜀の桟道もこれと似たようなもので、観光客が散策できるようにしっかりと舗装され手すりなども完備されているが、 当時の桟道なんて木の板を並べたもので屋根や手すりなどあるはずはなかったろう。踏み外して落下して帰らぬ人も後を絶たなかったろう。 言い換えればこの往来の不自由さによって、蜀の国を長い間大国からの侵攻に耐え続けることができたのである。
 今ではいくつものトンネルが掘られ、舗装された道路が走り、高速鉄道を使えばほんの3、4時間で西安と成都(四川省の省都)を行き来できる。

犬を食べる


犬鍋を食べる

 今日は日程のほとんどを山道の移動に費やした。 わたしたちは夕方陝西省宝鶏市に到着。宿で一休みした後、来さんに何が食べたいかと聞かれたので、わたしは思い切って犬が食べられるかどうか聞いてみた。 犬を食べるなんて信じられないと思われる方も多いかもしれないが、せっかくなので日本では味わえないものを食べてみたいと思ったのだ。 来さんは「犬ですか、大丈夫。食べられる店を知っています」と頼もしい。運転手の男性としばらく相談し、向かった店はけっこう人で賑わっている。 まずビールで喉を潤し、運ばれてきたものはパクチーと肉をラー油で和えたものだった。これが犬肉らしい。正直なところ、どんな味であったかはっきりと覚えていない。 豚でも牛でもなく、鴨南蛮に入っている鴨肉のような見た目と食感だったような記憶がある。とても美味しいというものではないが、決して不味くもない。 続けて鍋が運ばれてきた。犬鍋である。これも辛いラー油をつけて食べる。なるほどなんとなく獣くさい感じはするが、ラー油につけて食べることによって匂いは緩和されるようだ。 決して食べるのがイヤになるようなものではなく、精が付きそうな感じだ。よい経験をした。

三日目

陝西省宝鶏市

 宝鶏市は西安の西隣に位置し、甘粛省との境がある。経済や街の規模では西安の次に大きく、陝西省第二の都市として近年発展目覚ましい。 黄河の支流である渭河(ウェイハー)が豊かにその流れを湛えており、古くは黄河文明の栄えた地域のひとつとしても知られる。

五丈原


五丈原の武侯祠

五丈原の農村地帯

 宝鶏市の北東、岐山県には三国志のクライマックスの舞台である「五丈原」がある。劉備亡き後の蜀を支えた諸葛亮が魏との決戦の場として定め、またその志半ばで力尽きたことでも知られる。 三国志ファンなら一度は訪れてみたい場所だろう。
 車が町はずれの緩やかな勾配のある道を登っていく。周囲は畑ばかりである。老婆がクワで畑を耕している。それほど大きな畑ではないがひとりでクワだけで耕すのは堪えるだろう。 畑の真ん中やあるいは端っこに石碑が立っているのに気づく。これはその畑に関係する人の代々の墓石だそうだ。 市街地は日進月歩で発展を続けているが、いつかその恩恵がこのような農村にもたらされることはあるだろうか。
 武侯祠に到着。入口では先ほど畑を耕していたお婆さんと同じような年格好の女性たちがお線香を売りつけに近寄ってきた。 今しがた農村に生きる人たちへのシンパシーを綴ったばかりであるが、お線香は買わなかった。スミマセン。
 この五丈原武侯祠にも墓所があるが、ここには諸葛亮の衣服や所持品が収められている。 諸葛亮の半生を紹介するブースでは有名な「出師の表」の全文が刻まれた石碑があり、運良くその拓本を取る作業を見学することができた。 この作業をわたしよりも熱心に眺めていた来さんは書の類に造詣が深いようで、なんでもここの石碑に記されている文字は評判の高いもので、 生産される拓本はおみやげとするのによく適しているそうだ。
 周囲を畑に囲まれ、少し霧の立ち込める場所に五丈原武侯祠はある。千八百年の時を超え、志半ばにして散った諸葛亮の魂は安らぎを得ることができたろうか。

西安に戻る。終わりに

 西安近郊2泊3日の旅も間もなく終わり。宝鶏から西安市内に戻ってきた。
 今回の旅を始めから思い返すと、西安から漢中、漢中から宝鶏へはいくつものトンネルをくぐり、勾配の激しい山道をひたすらに走りぬけ、かつて劉邦が天下統一の出発点とした、 強固な自然の要塞を実際にたしかめることができたことが強く記憶に残っている。
 車窓からはつくりの同じ家並みをした農村の集落など、市街地では見ることのできない農村の人々の生活模様も垣間見えた。
 来さんは運転手の男性の運転技術を称賛した。来さんのガイドの経験上、今回のような旅程では多少の遅れは仕方ないということだったが、 彼は勾配やカーブが何時間も続く山道を安全かつスピーディに運転し、旅に遅延を発生させることがなかった。
 来さんは少し言いにくそうに、「できたら彼にチップをあげたほうがいい」とわたしにささやいた。 なるほどそれもそうかと思い、西安に到着後、お別れのあいさつの時に100元札を一枚彼に手渡した。 多いのか少ないのかよくわからないが、彼はにこりと笑みを浮かべながら受け取ってくれたので、よしとしよう。
(終わり)


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