シルクロード コラム 河南省・三国志遺跡を訪ねる


河南省の農村の風景

 日本人、特に日本人男性で三国志に親しんだ経験のある人は多いだろう。わたしも小学生の頃に漫画やテレビゲームを通して三国志のキャラクターを知るようになった。 それから30年近く経ち、その三国志の舞台となった中国という国に住み、三国志にまつわる史跡を訪ねるようになるとは当時の自分にしたら思いもよらないことだ。
 初めて訪れた中国の地は蜀の都「成都」だったし、西安に初めて訪れたときも、三国志の史跡のある宝鶏、漢中を見て周った。
 特に三国志についてマニアックな知識があるわけではないが、けれどもわたしが中国に住むきっかけのひとつになっていることは間違いないと思う。 いまから1800年近く前、日本では謎に包まれている卑弥呼の邪馬台国の時代に、すでに中国では群雄割拠、栄枯盛衰のドラマが展開され、物語として後世に広く伝えられているのだ。
 今回、中秋節の連休を利用して、三国志の中で最も強大な力を誇った魏が都とした「許昌」を訪ね、三国志にまつわる史跡を訪ねた。

一日目

河南省南陽市へ

 連休前日の夜行列車で目的地を目指すのは、私の旅行パターンとしておなじみである。 西安から8時間ほどかけて河南省のちょうど中央に位置する「許昌市」に到着。三国志で覇を競った魏・呉・蜀の3カ国のうち、最も大きい国であった魏の都に位置づけられていた場所だ。 この魏を興したのが「曹操」。許昌市街には曹操をメインに据えた公園もあり、許昌は曹操の街といってもいいかもしれない。
 今回の旅はスケジュールの時間配分の関係から、許昌の観光は後回しにして、許昌から南西190キロの場所にある南陽市へ向かう。 南陽には後に蜀を興す劉備の軍師として迎えられる諸葛亮が晴耕雨読を送っていた場所に近く、市街には諸葛亮を祀った「武候祠」がある。
 許昌からバスで4時間、お昼少し前に南陽に到着した。

羊肉烩面を食べる


村の食堂

 バスを降りた場所は市街地ではなく南陽の高速道路出口。この近くに蜀の五虎将軍の一人として活躍した老将「黄忠」の郷里「夏餉鋪村(シャーシャンプー村)」がある。
 バスを降りた場所の近くに近所の村人たちで賑わう羊肉湯の店を見つけたのでここで昼食としよう!
 店の外のテーブルにも羊のスープや烩面(ホイ麺)をすする人たちで溢れている。店内にはメニュー表もない。 レジのお姉さんにホイ麺を頼み、外のテーブル席で相席して待つ。厨房からスープや麺のどんぶりをたくさん載せたお盆を持ったお兄さんが怒鳴り声を上げながら現れると人々が群がり始めた。 これはちょっとした光景だ。負けてなるものかとわたしも参加したが、お姉さんに制止された。お姉さんは順番をしっかり把握しているようだ。
 次に出てきたお盆にわたしのホイ麺があった。すごい盛りだ。白濁したスープに幅広麺。少量の羊肉に香菜がかかっている。野趣溢れるスープの香りに麺によく味がからんでいてうまい。 大盛りだったが完食。同じテーブルのおじいさんたちは羊肉とスープ、サラダで酒盛りを始めていた。昼間っからうらやましい!

黄忠故里


黄忠故里

 腹ごしらえを済まして出発。路線バスで夏餉鋪村の近くまで行き、そこからは農村を40分ほどかけて歩き、黄忠を祀った廟「黄忠故里」へ。
 ひなびた廟である。祠には黄忠をメインに、配下の陳式、張著の像が祀られている。この二人の名前は壁にマジックで書かれている。お金のかかっていない雑さがいい。
 廟の敷地の中には石碑がいくつもが置かれているが、ほとんどは何と刻まれているかわからなかった。管理人のおじさんはちょうど食事中で麺を食べており、わたしが「ニーハオ」と声をかけると、「やあ、もう食べた?」と返事が。
 黄忠(西暦?-220)は蜀で活躍した将軍のひとりで、弓矢に秀でた老将。三国志演義では漢中攻略戦の定軍山の戦いで、魏の夏侯淵を討ち取る大殊勲を挙げている。

南陽武侯祠


南陽武侯祠

 黄忠故里を出て南陽市街へ。バスターミナルで明日許昌に戻るためのチケットを入手してから「武候祠」へ。
 天下の形成を魏・呉・蜀三つ巴の形にし、最も小国で非力だった蜀を他の二国に肉薄してみせた、この「天下三分の計」を唱えた諸葛亮(西暦181-234)は三国志の主役の一人である。
 陝西省の宝鶏市や漢中市にも諸葛亮を祀った武候祠があるが、ここ南陽も諸葛亮ゆかりの土地であるため大きな武候祠があり、多くの観光客が訪れている。
 「三顧の礼」によって劉備の陣営に迎えられた諸葛亮は、それまでこの南陽の地で晴耕雨読の日々を送っていた。これが南陽に武候祠がある所以である。 創建は三国時代が終わって間もない魏晋(西晋、あるいは単に晋ともいう)の時代であるから1800年近い歴史がある武候祠なのだ。

宛城遺跡


夜の南陽人民公園で憩う人々

宿でひと休みをし、再び外に出る。すでに陽は傾きかけており、本来ならば待ちに待った夕食タイムと行きたいところだが、まだ消化していない目的地があるのだ。
南陽人民公園へ。 ここは南陽の人たちの憩いの場となっている公園であるが、三国時代、正確には曹操が力をつけて「乱世の奸雄」として世に名乗り出始めた頃、 降伏した敵将の起こした反乱に不覚を取り、右腕だった腹心の武将「典韋」(西暦?-197)をこの地で失った。 体中に矢を受けてなお、肩を怒らせ睨みつける典韋の形相に、多勢の敵軍は恐れをなす。三国志の名シーンのひとつである。
 南陽人民公園の北門の西にある高台が、その戦いの舞台となった宛城遺跡だ。 当時の面影や遺物が残っているわけではないので「遺跡」と言えるかどうかわからないが、とりあえず石碑を写真に収め、人民公園を後にした。

牛雑麺を食べる


牛雑麺

 宿の近くの店で「牛雑麺(ニョウザー麺)」を食べる。牛のホルモンの入った麺だ。麺は細く、西安の麺と異なり玉子を使用し製麺機で打った麺のようだ。 この辺りや湖北省でよく食される「熱乾麺」に用いられる麺と同じと思われる。
牛ホルモンの他に酸菜(高菜のような味付けをした漬物)やニラ、ピーナッツなどが入っている。スープは少し濁っていて、見た目には分からないがけっこう辛い。


二日目

羊雑湯を食べる


羊雑湯

 翌朝南陽を発ち、お昼前に許昌に到着。バスターミナルの近くの屋台で「羊雑湯(ヤンザータン)」を食べる。羊のホルモン入りスープ。昨晩は牛のホルモンを食べ、今日は羊のホルモンだ。
スープは昨日の昼に食べた羊肉烩面と同じものだ。これに湯がいた羊のホルモンを入れて食べる。それだけだと物足りないので、素焼きのパンをかじりながらスープを一緒に頂く。



華陀墓


華陀墓

 許昌市街から北に約13キロ、路線バスで30分ほどで張月庄に到着する。この村の東に「華陀」(西暦?-208)のお墓がある。
 三国時代の医師・華陀は麻酔を用いて腹部切開手術を行っていたとされる。三国志演義において、肘に重傷を負った関羽の手術を行なったことで知られる。 この時関羽は痛い素振りを少しも見せず馬良と碁を打っていたというエピソードは有名である。
 後に華陀は曹操に召し出されるが、待遇に不満を抱き偽って故郷に帰ったが、怒った曹操に投獄され、拷問を受けて死んでしまった。
 華陀の行いは後世に伝わり、道教においては医学の神のひとりと位置づけられ、中国各地に華陀を祀った廟が多く存在する。ここ張月庄にある華陀墓はその総本山とでも言うべき場所だろう。
 とは言うものの、ひなびていて、墓墳、本尊の他に巨大な華陀像も鎮座しているが、訪れる人は少ないようだ。 しかし政府が巨額を投じてあたかもテーマパークのように改築されるよりは、今のままでもよい気がする。
 伝説の名医がここに眠っていることに違いはないのだ。

王允墓


王允墓

 許昌市街に戻り、市街北部の政府ビルの少し北に流れる川沿いの遊歩道へ。ここには後漢末期の政治家「王允」(西暦137-192)の墓がある。
 王允は漢王室に忠義を尽くした人物で、戦火の混乱に乗じて宮廷を牛耳り悪逆非道の限りを尽くした董卓を、王允が策を巡らせ退けることに尽力した。
 董卓が呂布により殺害された後、王允が中心となり荒廃した宮廷の立て直しを図ったが、周囲との協調が折り合わず、董卓の配下であった李?、郭らによって捕縛、処刑された。
 三国志演義では王允が養女の「貂蝉」を用いて、董卓の養子となっていた呂布を惑わせ董卓暗殺を図った人物として知られている。


 

熱乾麺を食べる


熱乾麺

 夕食に「熱乾麺(ルアガン麺)」を食べる。小洒落た店で色々な種類の熱乾麺がある。 カウンターで待っているとおばさんが湯がいた麺を碗に入れ、様々な調味料をかけてくれる。ネギはセルフで入れ放題だ。麺をかき混ぜると黒い調味料の色が全体に広がる。
 おばさんに「この黒いのは何?」と聞いたら、「黒ゴマのタレだよ、あんた知らないの!」と笑われた。田舎者だということがバレてしまった!


三日目

徐晃墓


遠くから除晃墓を望む

 三日目は許昌市街の東、「張潘(ジャンパン)鎮」に行く。かつて魏が都としていた場所で、今はとうもろこしや唐辛子の畑が一面に広がる農村地帯だ。 この広大なとうもろこし畑の片隅に、魏の右将軍として活躍した「徐晃」(西暦?-227)の墓がある。
 張潘鎮の東、「城角除(チャンジャオシュー)村」のとうもろこし畑を北東に進んでいくと徐晃墓の石碑が見える。 見えるのだが、背の高いとうもろこしの苗に阻まれて近くまで行くことができない。 ちょうど私が訪れた時、石碑のすぐ近くで収穫をしていた家族がいたので「あの石碑まで行ってもいい?」と聞いたところ、「ダメ!」と言われてしまった!
 徐晃の武人としての功績は、彼の戦場での勇猛ぶりに由来する成語「長駆直入(ちょうくちょくにゅう)」、あるいは「長駆(ちょうく)」として、現代の世にも伝わっている。
 徐晃は敵将にも関わらず蜀の関羽と親しい間柄であり、お互いの実力を認め合う仲であったという。

漢魏許都古城


漢魏許都古城

 張潘鎮のほぼ中央に「漢魏許都古城」がある。 門をくぐった先に「毓秀台(ユーショウタイ)」と呼ばれる楼閣があり、かつて漢の最後の皇帝「献帝」(劉協:西暦181-234)がここで祭祀を行なったとされる。
 献帝は、幼年時代から国家の騒乱に翻弄され続け、即位後もすでに皇帝としての実権はなく、傀儡としてのみ存在を許されていた。
 196年、都での実権を掌握した曹操は許昌に遷都を実行し、献帝も移動を余儀なくされた。 220年の曹操の死後、魏を継いだ曹丕に譲位を迫られ、この譲位により、220年近く続いた後漢の滅亡となった。 献帝は譲位後、「山陽公」という身分に封じられ、234年に54歳で死去した。
 毓秀台は現在道観になっている。 門前はとうもろこしや落花生の実を干す場所として用いられており、私が訪れた日はちょうど中秋節だったため、 近隣の多くの住民たちが集まってお参りをしたり、お菓子を食べながら談笑し、とても和やかな雰囲気であった。

張公祠


張公祠

 次に向かうのは張飛を祀っている廟である「張公祠」。
 劉備が許昌の曹操の元に滞在し、献帝(後漢最後の皇帝)に謁見などしていたことから、劉備一行のひとりである張飛が祀られることになったと推察する。
 なぜ張飛なのかはよくわからないが、もともとここは小高い丘の上にあり、山賊や盗賊から村を守るための要塞の役目も果たしていたようだ。 入口も城壁の門のようになっているのが特徴で、お寺や道観というにはちょっと物々しい。
 三国志に登場する人物でも一際武勇の誉れ高い張飛を村の守り神のようにして祀っているのかもしれない。


捞麺を食べる


捞麺(ラオメン)

 許昌の街に戻り、昼食に捞麺(ラオメン)を食べる。キクラゲやニンニクの目、タマネギなどの野菜、それに湯葉を一緒に炒めたのを麺にかけたものだ。
 どんぶりにすごい量の炒め物が乗っているのでなかなか麺にたどり着かない。麺は平打ちの細切りのもので、炒め物の醤油味の味付けが麺にもよくからんでうまい。



許昌関帝廟


霸陵橋公園内にある関帝廟

碁を打ちながら華陀に治療を受ける関羽廟

捞麺で膨れた腹をさすりながら「霸陵公園」へ。敷地内に大きな関帝廟がある。
 関帝廟とは言わずと知れた、「関羽」(西暦?-220)を祀った廟のことで、現在は商売の神様として中華民族から大きな信仰を集めている。 横浜中華街の中心にも大きな関帝廟があるのをご存知の方も多いだろう。
 劉備が曹操を裏切り袁紹の元へ逃げると、関羽と劉備の家族は曹操に囚われの身となる。 曹操はかねてから関羽の武勇と人柄に心服し、配下に加えられないかと願う一方で、その義に厚い関羽の性格から、いつかは必ず劉備の元に戻るであろうことも予期していた。
 いよいよ劉備のもとに戻ろうとし、後を追ってきた曹操に別れの挨拶をする霸陵橋がこの霸陵公園に復元されている。
 関羽の決意が固いことを知っていた曹操は、配下の兵たちに決して追ってはならないと命じた。 三国志演義では、後年の赤壁の戦いの際、敗走する曹操の前に関羽が伏兵として現れるが、過去の恩義に報い、わざと見逃すというエピソードが描かれている。
 なお、許昌市街の中心部には関羽が許昌で過していたとされる住居が復元され、観光地として賑わっている。関羽が愛読していた「春秋」にちなみ、「春秋楼」と呼ばれている。

終わりに


高速鉄道専用駅・許昌東駅

 許昌市街の中心には巨大な曹操の像が出迎えてくれる「曹丞相府」や「春秋楼」など、政府が巨額を投じて建設したテーマパーク然とした観光ポイントは避け、 地元の人たちの生活と同じ時間が流れているような史跡を選んで訪ねて歩いた。 なかには忘れ去られそうなものもあったが、個人的には充実した三日間だった。
 許昌や南陽のみならず、三国志の観光ポイントは中国全土に数多くある。これからも時間を見つけては訪ね歩き、こちらで紹介していきたい。
 (終わり)


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