前漢の武帝の時代(紀元前50年頃)は、古代中国がその覇権を西域に最も拡大した時期であった。
後年、西域に赴任する友を詠った杜甫の詩にあるように、その頃の中華民族にとって西域とは、まだ誰も知らぬ未開の地であり、
そこに赴いて生きて帰る保証は何ひとつないことを意味した。
時を同じくして西域のさらにはるか西、ヨーロッパのイタリア半島。
共和政ローマでは、現在のイランの辺りにあったパルティア王国と戦闘を行っていた。
三頭政治の一角を担っていたクラッススもここで戦死するなど戦いは熾烈を極めたが、この戦闘においてパルティア軍の包囲を突破し、
そのまま行方不明となったローマ軍の一部隊があった。
数年後にローマとパルティアの間で停戦の合意がなされ、捕虜の交換が行われたが、
行方不明となった一部隊が戻ってくることはなく、消息は分からずじまいとなった。
一方、漢代に書かれた史書「漢書」に、紀元前36年の西域の匈奴討伐の際、匈奴軍に奇妙な傭兵部隊がいたことが記されている。
漢の軍隊はその傭兵部隊を捕虜とし、現在の甘粛省金昌市永昌県の辺りに彼らを住まわせたという。
現在、彼らが住んでいたとされる村には青い目をしている者もおり、また、ヨーロッパの風習を思わせる独特な習慣も残っているらしい。
ローマとパルティアの交戦で失踪したローマ軍の一部隊の謎と、
匈奴軍の奇妙な姿形をした傭兵部隊が一致するものかどうか、近年の研究でも明確な結論は出ていない。
けれども、このエピソードはシルクロードのロマンを掻き立て、想像力を膨らませるに十分な魅力を放っている。
端午節の連休に、この古代ローマの兵士たちが移り住んだという伝説の残る永昌を訪ねた。
端午節の三連休の前日、夜11時の列車で西安を発ち、翌日の正午過ぎに甘粛省金昌市にある金昌駅に到着した。
駅の周囲には食堂や商店が少々建ち並んでいるくらいで、高層ビルやマンションの類いは見当たらない。
後で知ったことだが、金昌の市街地は駅から離れた場所にあるそうだ。
今回の旅では金昌市街には立ち寄らず、金昌駅から南に10キロほどの場所にある「永昌県」に向かう。
その前に腹ごしらえを。回族の経営する店に入り、メニューをしばらく見渡す。
「菜拌面(ツァイバンミィエン)」というメニューが目に入ったのでこれを注文。
茹でた麺に野菜炒めをかけたものだろうと想像する。拌面とはぶっかけ麺のことである。
テーブルに置いてある生ニンニクをかじりながら待っていると「菜拌面好了!(ハオラ!:できたよ!)」と呼ばれたのでカウンターに取りに行く。
見ると予想に反してなんと肉も入っている!
他の拌面よりも安いのでてっきり肉は入っていないものと思ったが、これはお得だ。アツアツの肉野菜炒めと麺をじっくりかき混ぜながらいただく。
回族の店の麺は注文を受けてから打ったものを茹でる。コシがあって食べ応えがある。美味しい。
食後に近くのバスターミナルからオンボロバスに乗って永昌県へ。
運転手のおじさんに尋ねると、目的地である古代ローマ人の集落のある「骊靬古城(リーチェングーチャン)」に行くバスはないそうで、
親切にも、永昌のバスターミナルに到着した後、そこから少し離れたタクシーを拾うのにちょうど良い場所まで乗せていってくれた。
その場所でしばらく待っているとタクシーがやってきたので手を挙げたが、わたしを通り過ぎて十メートルほど先で停車した。
運ちゃんが窓越しにどこへ行きたいのか聞いてきたので、「骊靬古城」と答え、簡単な交渉を経て乗せてくれることになった。
車内には老夫婦が乗車していたが、彼らの言うことは全く聞き取れなかった。甘粛方言である。
運ちゃんの話では、観光客は骊靬古城の隣にある金山寺に行くよと言うので、そこで降ろしてもらうことにした。
金山寺といってもお味噌が名物なわけではない。
金山寺はお寺なので仏教の施設である。
古代ローマと仏教の関連についてはちょっと首をかしげるが、中央の仏殿は古代ローマ風(なのかどうか)の様式で建てられており、
仏教建築としては珍しいものと言えるだろう。観光客もわりと多い。
とは言えわたしのイメージとはちょっと違う。ローマ様式のお寺を見に来たわけではない。
お寺を出て骊靬古城のある集落に足を向けた。村の入口には物々しい城壁を建設中。
門をくぐると現れる広場の奥に、大昔から変わりのない様子の古い家並みが見える。
どのくらい古いかというと、どの家屋も木造やコンクリートではなく、ほとんど土でできているのである。土で塗り固められた外郭に、鉄製の門がはめられている。
ここが古代ローマ人の永遠の住処となったという集落「者来寨(ジャアライジャイ)」だ。
地面の色と変わらない殺伐とした家並みを少し歩くと、「??古城」と書かれた石碑が現れ、その向こうに側に土で作られた大きなブロックが所々に積まれている。
大昔ここに城があったことの名残りだ。雨風で風化していずれ朽ち果てるのを静かに待っている。
集落の向こうはゴビ灘の広がる荒野だ。はるか向こうにゲルがいくつか並んでいるのが見える。
モンゴルの遊牧民族が用いる移動式住居だ。ここから数十キロも行けば内モンゴル自治区なのである。
集落に人影はなく、そろそろ帰ろうかと思ったところへ、向こうから羊を数匹連れた老人が歩いてきた。
老人は人民服を着てヒゲを伸ばしている。ニイハオと声をかけると少しにこやかな顔をこちらに向けて歩いていった。
老人のシワに刻まれた顔の中にある瞳が青かったかどうかまではわからなかった。
先ほどのタクシーの運ちゃんに電話番号を教えてもらっていたので、呼び出して永昌の県城まで送ってもらった。
県城とは県の市街地のことを言う。この運ちゃんは物腰や語り口が柔らかくいい人だと感じたので明日の運転もお願いした。
料金は果たして適正なものだったかはわからない。
しかしこの人にだったら多少高く払ってもいいだろうという、納得や安心感を与えてくれるような人だった。彼の名は王さん。
王さんに宿まで送ってもらい、明日の約束の念を押して別れ、部屋に荷物を置いて食事だ!
羊の食べられる店に入り、王さんオススメの「黄焖羊肉(ホンメンヤンロウ)」をチョイス。羊を煮込んだものだ。
ボリューミーな肉片を咀嚼していると次第にホロリと砕けていき羊肉の旨味と香りが口中に広がり、やがて快感に変わる。
翌朝9時に王さんに迎えに来てもらい出発。車は街をすぐに抜け、農村地帯に入る。一面の小麦畑。
すくすくと育った苗の青さが眩しい。
列車から眺める甘粛省の大地は乾いた土の色がむき出しになっていて作物が育ちにくい環境が多いという先入観があったが(実際そういう地域も多いだろう)、
王さんによると永昌の南側にそびえる祁?(チーリェン:キレン)山脈からの豊富な雪解け水がこの地域に恵みをもたらしているのだそうだ。
そういえば昔敦煌に行った時も、同じことを聞いたことがある。
我々が向う「云庄寺(ユンジュアンスー:雲庄寺)石窟」はこの祁連山脈のふもとにある。
とは言ってもふもとの駐車場から30分ほどの登山(運動不足には相当堪える)を経てようやく寺院に到着する。
雲庄寺はそれほど大きくない、ひなびた仏閣を3つほど備えた寺院で、わたしが本堂の中を覗いていると母屋から寺男、
もとい寺おばさんが出てきて本堂に置かれている小さな鐘をゴーンと鳴らした。
石窟は本堂の上部にあり、建物の裏手から石段を登る。崖を切り拓いて作られた足場には柵が設けられていないため、歩行には注意が必要だ。
小ぶりの窟にはそれぞれ小さな仏殿がこしらえられており、木造の仏像が鎮座している。
当石窟は石や土を掘削して造られた仏像が供えられているわけではないようだ。ひとつひとつ手を合わせてから行く。
石窟はさらに上部にも存在するが、石段の作りが非常に危険なため、登るのは諦めた。怖い。
下山途中、多くの家族連れとすれ違った。山をもうしばらく登るとその向こうに見晴らしのよい高原があるそうで、ここは本来景勝地として知られている。
石窟見学というよりも登山やハイキングスポットとしての需要の方が高いのである。駐車場もすでに満車であった。
次の目的地「聖容寺塔」に向う途中、道路脇を岩山の続いた場所に「花大門(フアダーメン)石窟」と書かれた石碑のあるのを見つけ、車を停めてもらった。
存在はわかっていたが、どこにあるか調べがつかずにいた石窟だったのだ。これは運がいい。
王さんもこんなところに石窟があったことは知らなかったようで、2人で見学することにした。
花大門石窟はかつてこの辺りが西夏王国(西暦1038‐1227)に支配されていた時代に造られたとされる。
岩山の斜面に掘削の跡が伺える程度の現存度合いだが、周囲を荒野に囲まれゴツゴツとした岩山の雰囲気は独特で、少しばかりの間この辺りを歩いてみるのも悪くない。
花大門石窟から車を北に進めると、道路沿いに万里の長城の跡が見えてくる。 北京郊外の観光地のようなものではなく、土でできた壁が朽ち果てようとしているだけのものだ。 そばの石碑には「漢代長城」と刻まれている。足元に気をつけながら長城に上り、悠久の歴史の流れに身を任せる。
漢代長城からまた車を少し走らせると「聖容寺(シェンロンスー)」という寺院に到着した。寺院の奥の崖の上に塔が立っているのが印象的だ。
聖容寺の創建は西暦561年。隋の第二代皇帝「煬帝(ようてい)」が西暦601年にこの寺院に立ち寄ったことがきっかけで「感通寺」と改名された。
したがって聖容寺、またの名を感通寺とも称する。
唐代にはあの玄奘三蔵がインドから仏典を持ち帰る帰路に当寺院にしばらく滞在したという。
また、敦煌の有名な石窟寺院「莫高窟」には聖容寺について描いた壁画があり、周囲に広く知られた寺院なのである。
寺院を簡単に参観した後、早速崖の上の塔に登ってみる。階段が急でかなりくたびれたが、塔は保存状態のよい綺麗な色をしていた。[
これも唐代に建てられ、大規模な修復はしていないというから驚きだ。
聖容寺を後にし、永昌の県城に戻る。県城の外れに「永昌武当山(ウーダンシャン)」がある。
武当山と言えば湖北省十堰(シーイェン:じゅうえん)市にある武当山とその道教施設群が有名で世界遺産にも指定されているが、
この永昌武当山は清代に創建され、規模的にはかなり小さい。
けれども、山のふもとから山を見上げるといくつもの道観を見渡すことができ、なかなか壮観だ。
入場無料であるし、どうせならば登ってひとつひとつ見学したかったが、あいにく帰りの列車の時間もあり、一番手前にある楼閣だけを見学して永昌武当山を後にすることにした。
実を言うと、午前中から山登りをしていたのでこの時はもうヘトヘトだったのであります。
県城のバスターミナルに到着し、王さんにお金を支払い、お礼を言って別れた。路線バスで金昌駅まで行き、夕方の列車で西安への帰路に着いた。
西安から金昌まで列車で片道10時間以上。3連休とは言え実際に現地で観光できるのは1日半くらいで、なかなか贅沢な旅だったといえるだろう。
寝台車の窓際席に座りながら傾きかける夕陽を眺める。今回の旅のメインは古代ローマの末裔を訪ねる旅。
あの羊飼いの老人がその末裔だったかどうかはわからないが、雰囲気は少しだけ感じることができたので、これでよしとしよう。
(終わり)
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