西安はかつて秦、前漢(後漢の都は「洛陽」)、隋、唐が都を置いた歴史ある都市である。 代々の皇帝の陵墓もこの西安周辺に点在している。 なかでも秦の始皇帝の陵墓である「秦始皇陵」やその周囲に配置されたという兵士をかたどった人形が発掘された「兵馬俑」は世界的に有名な観光地として 多くの観光客が日々訪れている。 本コラムでは漢代(前漢)の皇帝の陵墓としてポピュラーな場所を4カ所訪ねている。 地元政府によって綺麗に整備され観光地化された陵墓もあれば、なぜか人の手があまり入っていない様子の陵墓もあり様々だ。それでは早速行ってみましょう!
武帝の在位は紀元前141年−紀元前87年。
祖父の文帝、父の景帝による善政の恩恵を受け継ぎ、潤沢な資産を元手に外征に力を入れた。
西域に外交特使として赴いた「張騫(ちょうけん)」が持ち帰った情報は、北方民族の匈奴に対してそれまで弱腰な対応しかできなかった漢にとって、
攻勢に打って出るきっかけとなり、英雄「霍去病(かくきょへい)」や「衛青(えいせい)」らの活躍で西域の領土拡張に成功する。
このときから中国のシルクロード文化が花開き、漢に最も勢いもたらすこととなった。
かと言って良いことばかりでもなく、栄華を極め奢ってしまったのか、讒言を遠ざけ、甘言をささやく者を多く近づけるようになり、
また無闇に人を罰し、同僚の李陵の減刑を願い出た、後に「史記」を著すことになる司馬遷に宮刑を命じるなど、極端な行動を取ることが多くなった。
外征の成功により前漢の勢いはここに隆盛を極めるが、同時に増大する戦費の影響により、国庫は決して潤っていたとは言えなかった。
武帝の陵墓「茂陵」は西安市内の北西、興平市の農村地帯にある。わたしは4キロほど離れた場所までバスで行き、そこから畑道をとぼとぼ歩いて「茂陵博物館」に向かった。
茂陵博物館には付近から出土した品々の展示や、武帝時代の統治、特に西域攻略を人形で説明した展示ブースなどがある。
出土した石像はどれも大ぶりのものでスケールの大きさを感じさせ見ごたえがあるが、中には屋根のない場所に雨ざらしで展示されているものもあった。
月日の経過とともに雨に打たれて形が崩れてしまうんじゃなかろうか。敷地内には西域攻略で活躍した将軍「霍去病」の陵墓がある。
敷地外に隣接する形で同じく将軍「衛青」の陵墓もある。
この差は何だろうか。また、肝心の武帝の陵墓はなぜか茂陵博物館とは離れたところにあり、わたしは訪れることができなかった。
けれども霍去病や衛青の陵墓に登り周囲を見渡せば、はるか二千年以上前の時代に思いを馳せ、悠久のシルクロードのロマンにじっくりと浸ることができる。
景帝の在位は紀元前157年−紀元前141年。
質素倹約に励む政策をとり、国力を充実させた。在位中には呉礎七国の乱(景帝が青年時代に起こした事件が遠因)が起こるが、うまく平定に成功し、 父の文帝の時代と合わせてこの前漢の安定した時代は「文景の治」と呼ばれ、この時築かれた資産をもとに、次の武帝は西域攻略に乗り出すことになる。
景帝の陵墓「陽陵」のある「漢陽陵博物館」は西安市街の北、西安咸陽国際空港の東に位置する。咸陽市に位置するが、
西安市街からも直接アクセスできる路線バスが出ており、西安から訪れやすい陵墓のひとつだろう。
陵墓とその周辺は綺麗に整備されており、今回紹介した中で最も観光しやすい陵墓だろう。陵墓の雄壮さに心打たれる人も多いはずだ。
なお、陽陵から東へ車で20分ほどの場所に、漢を興した劉邦の陵墓「長陵」がある。
陽陵の一番の見どころは陵墓の内部がそのまま公開されている点で、陵墓の中はどんなふうにできているのかを目の当たりにすることができ、
たいへん貴重だ。ここからの出土品は併設されている博物館でじっくり見ることができる。
宣帝の在位は紀元前74年−紀元前49年。武帝のひ孫にあたる。
宮廷の騒乱により親兄弟がみな処刑され、幼少の「劉病已(りゅうへいい)」だけが民間に匿われ、密かに育てられた。
武帝亡き後、昭帝が後を継ぐものの数年で没し、その皇太子であった劉賀は暗愚とされ、即位したもののわずか27日で廃位、
民間にいて学問を身につけていた劉病已が推されて即位することになった。これが宣帝である。
民間で生活していたことで民衆の現実をよく把握しており、理想主義で形式ばかりにこだわる儒者を嫌い政治の中枢から遠ざけた。
行政改革と刑罰の厳重化を推し進め、武帝以来傾きつつあった国家財政を立て直した。
「信賞必罰」とは、「漢書」の中で宣帝の政治を評する部分で登場する言葉である。
宣帝の陵墓「杜陵」は西安市の東南、市街地からそれほど遠くない場所にある。最もアクセスしやすい陵墓と言えるだろう。
敷地内は緑豊かな庭園といった趣きに整備されており、陵墓見学と散策を一緒に楽しむことができる。
付近にはサバイバルゲーム場やバーベキュー場などのアウトドア施設もあって面白い。
杜陵には西安秦砖漢瓦博物館が併設されている。これは宣帝とは特に関係がないが、陝西省、山西省、河南省などで出土した「瓦」を展示している。
瓦といっても日本の家屋の屋根に設置されているようなものとは異なり、土を真四角や円状の形にして細かい彫刻を施して焼かれているのが特徴で、
宮廷や格式のある建物の壁などに取り付けられていたという。
建築部品というよりも一種の工芸品と呼ぶにふさわしい芸術性の高さで、その歴史は幅広く、周代から清代まで製作され続けた。
これは瓦です、と言われると得心がいくが、眺めているとなんとなく南部煎餅のように見えてきてしまい、少し腹の減る思いがした。
花より団子、芸術性もへちまもない。
帰りがけに杜陵近隣の農村の食堂で卵とキクラゲの炒め物とご飯を食べて帰った。
最後にご紹介するのは秦の滅亡後、項羽を破って一代で中国を平定し、「漢」を建国したその人、
「劉邦」の陵墓。漢は見ての通り「漢字」や「漢民族」といった現在の中国を形づくる基礎となる言葉として用いられている。
それだけに劉邦の存在はこの重厚長大な中国史の中でもひときわ大きい。
劉邦が高祖として皇帝の位についていた期間は紀元前202年−紀元前195年。
劉邦は皇帝になってからの功績を問うより、やはり漢を興して皇帝になるまでのドラマがひとつひとつ際立っている。
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を読まれた方も多いだろう。劉邦は自身特別な知力や腕力があるわけではなかったが、人を寄せ付ける魅力があったとされる。
よいアイデアであれば讒言であっても積極的に用い、そこに身分の分け隔てがなかった。
これは現代の中国ビジネスにおいても人を使ううえでの手本のひとつとされ、劉邦は現代でも崇拝される偉人のひとりなのである。
さて、そんな偉大な人物の眠る陵墓の周囲は意外や意外、ほとんど整備がされていない。
直接訪れることのできる路線バスもないし、駐車場もない。したがって観光客が訪れることはほとんどないだろう。
地元政府の事情でもあるのだろうか。
漢を興した人物の陵墓であればもっと大々的にアピールしてもよい気がするが、特別な人物の陵墓なだけに、特別な思いがあるのかもしれない。
そう考えると、このまま知る人ぞ知る場所に留めておくのもよいかもしれない。
そばには皇后「呂后」の陵墓もある。劉邦亡き後の王室を牛耳った悪名高い奥さんだが、二千年以上経った現在では、
喧騒の激しい市街地から隔絶された場所でひっそりとふたつの陵墓がよりそっている。(終わり)
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